“ふじのくに”
先人の偉業と先輩が築き上げてきた伝統

 

写真04. 浜松バッハ研究会 創立30周年
 ~創立者・河野周平代表インタビュー~



1994年のアクトシティ浜松のオープンにより、楽器の町から音楽の町へと大きく変貌をとげていった浜松市。
その20年も前の1974年、本格的なバッハ演奏会が浜松で開かれた。その後の紆余曲折の中にあっても、バッハ演奏に情熱を傾けた続けたメンバーたちが再度結集して、1985年、浜松バッハ研究会が創立される。前身となる合唱団の発足当時より、バッハに傾倒し、浜松バッハ研究会の再興に尽力し、今も現役で歌い続けている創立者の河野周平代表。
浜松という文化の土壌が育んだ、バッハへの敬愛と情熱の源泉は何か、創立30周年を迎えるまでの歩みを辿りながら、河野代表にお話を伺った。

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Q.
浜松でバッハを歌おうと考えた動機や経緯についてお聞かせください。

A.
浜松地区でのバッハ演奏の歴史を紐解きますと、1972年までさかのぼります。

私がヤマハに就職し、浜松に赴任した年なのですが、九州生まれの私が大学時代(九州)に学んだ濱田徳昭先生にチャンスを与えられたことから始まりました。濱田先生は、今は亡き、日本のバッハ演奏の先駆者であり、バロック音楽の大家といえる大先生です。先生とのご縁で、同年代の3人が集まったのが、ちょうどこの時期でした。当時、磐田にいた新井治男さん、豊川にいた若林学さん、浜松にいた私の3人です。三人で先生を囲んで一緒に会ったのが、1973年3月21日、奇しくもバッハの誕生日でした。
そこで、「では、何か始めよう!」ということになりました。最初は先生をお招きして「古典合唱音楽研究会」という名称で、基本はバッハでしたが、勉強をしようと人を募って少人数の講座のようなものから始まったんですね。その後、コンサートをやろうということになって、1974年の10月25日に浜松の成子にあった浜松カトリック教会の聖堂で、“カンタータ140番”と“マニフィカート”の組み合わせで最初のバッハの演奏会を実現したのが最初ですね。
この時、浜松の方は「浜松ポリフォニカ・アンブロジアーナ」、豊橋の方は「豊橋ポリフォニカ・グレゴリアーナ」という名称で姉妹団体のような形で始まりました。


(写真)浜松初の本格的なバッハの演奏会「バッハの夕べ」 1974.10.25

浜松と豊橋の二つのグループが一緒になって実現できたのですが、特に浜松の場合、その土壌というか、そこに集まってきた愛好家の方々が実に多かったですね。たとえば、マニフィカートとか、ロ短調ミサをやろうとすると、ピッコロトランペット(高い音が出るトランペット)が必要なんですが、普通は東京にしか奏者はいないし、そもそも楽器もないのですが、ところが浜松にはそういった人が当時から何人かいるんですよね(笑) 濱田先生もビックリされていましたよ。もともと浜松は吹奏楽のメッカでもありますが、そういった珍しい楽器を、ましてアマチュアが持っているなんて普通ではなかなか無いことが、この浜松には当時からあったんですよ。
コンサートの楽器の演奏には、中心になる奏者に東京からプロやプロの卵のような方々をお呼びするのですが、当時演奏いただいた方々が、のちにN響のトップになったり、世界で活躍されるソリストになった方々が何人もいたんですね。

私は1978年のメサイアの演奏会まで浜松に居ましたが、その後、転勤でドイツに行きました。
ちょうどその頃から濱田先生が古楽器に着目され、世界に先駆けてその道を拓いていったんです。私は当時ヨーロッパにいましたので、楽器(古楽器)や楽譜をさがしに走ってましたね(笑)
のちにバッハ・コレギウム・ジャパンを結成した鈴木雅明さんも、当時学生で留学して古楽器を学んでいた頃ですので、濱田先生はずっと早くから、古楽器によるバロック音楽の演奏を始められた、まさに先駆者なんですね。

ハンブルクにいた頃、私はモンテヴェルディ・コア(合唱団)に所属していたんです。ユルゲン・ユルゲンスという先生が組織した合唱団ですが、ニコラス・アーノンクールとかと一緒に、この世界の音楽の先駆けの一人です。私がたまたまそういった合唱団にいたことで、濱田先生から「モンテヴェルディをやるから資料を送ってくれ!」とか、いろんな注文をいただいて、私は楽譜や音源を集めては日本に送っていました。また、その頃から日本オラトリオ連盟(浜松や豊橋の合唱団も参加)なども、ヨーロッパに演奏旅行に行く動きも始まった頃で、そういった公演の現地でのマネージメントも担当しました。私自身としては、そうやって現地の文化に入り込んでいくことで、言語はもちろん、さまざまなことを学ぶ機会になったと感じています。



古楽器へ傾倒していく流れは、当時先駆的であった反面、その後、大きな岐路を迎えることにもなりました。
というのは、最初の頃は、浜松の文化の土壌のおかげもあり、アマチュアの優秀な奏者の方々が大勢いたので、管弦楽の方に大きなコストがかけずにバッハの大曲が演奏できたんですね。大都市でもない地方都市で、このようなコンサートを実現できた大きな要因だったんです。
それが古楽器の方向になると、東京から専門のプロを招聘しないとできない訳ですし、人材とコストの両面で成り立たなくなってしまうんですよね。そういった流れによって、活動の維持が難しくなり、1984年に私が日本に戻ってきた時には、もう解散してしまっていました。姉妹団体の浜松と豊橋の両方とも解散してしまったのですが、その後、浜松医科大学の浜松スコラ・カントルムが、もう一度、浜田先生をお呼びしてつないでくれたんですね。途中から、卒業生を中心に一般団体として浜松アカデミア・カントルムに変わりましたけど、その当時から頑張っておられたのが、今村陽子さん(浜松医大1期生)です。その後も頑張って活動を続けていらっしゃいましたが、卒業して社会人になると地元を離れたりいろいろあって、1985年4月のミサ曲ロ短調の演奏を最後に解散に至った訳です。濱田先生の指導と指揮でコンサートを継続していったのもここまでになりました。

1985年は、バッハ生誕300年記念の年なのですが、その時には母体が無くなってしまったんです。
でもせっかくバッハの記念の年ですし「何かやりたいね!」というところから、浜松アカデミア・カントルムに賛助で入っていたメンバーをはじめ、かつて一緒にやっていた仲間たちと語らって、急きょ9月か10月くらいになってから、浜松初演になる“クリスマス・オラトリオ”をやろうということになりました。この時は予算も無かったので私が指揮をしたんですが、コンサートが終わった直後に、「名称を“浜松バッハ研究会”にして続けていきましょう」ということになりました。それが、今から30年前のことです。


(浜松バッハ研究会 創立(再興)時の演奏会チラシ 1985.12.26)

振り返れば、やはり浜松にはその前から育まれてきた土壌があったことで、そういった呼びかけに対しては、皆さんお応えいただけましたし、紆余曲折はあったものの、ここまで続けてこられたといえるかと思います。


Q.
バッハ研究会を設立する原動力にも通じるところがあると思いますが、バッハの音楽や、バッハという人物の存在感や、バッハが成したことの音楽界への影響など、バッハのどういうところに魅力を感じていらっしゃいますか?

A.
一つは、バッハをやっていることへの「安心感」ですかね。
他の音楽によそ見しなくてもいいような、そういった安心感があるんです。
よく言われるのが、ヨーロッパのすべての音楽はバッハに流れ込んで、その後のすべてはバッハから流れ出したといいますが、そういう意味でも、バッハ以前も以後も、すべての音楽の根源であって、非常に安心感というか、そもそもバッハは難しいので他によそ見できないということもありますね。メンバーの皆さんも他の合唱団と掛け持ちしている方もいますが、皆さん「本籍:バッハ」ですよね(笑)
もっと古いのをやってみたり、ロマンティック(ロマン派の音楽)をやってみたり、ジャズをやってみたり、いろいろある訳ですが、やはりバッハが心の拠りどころというか、本籍になっていますよね。


(J.S.バッハ 1685-1750)

いつも思うことは、バッハはやっていても飽きがこないというか、何度歌っても新しい発見がありますし、やはりすべての根源であることゆえの「安心感」でしょうか、そこに尽きますね。

私はヤマハの仕事でヨーロッパに何年か行ってましたが、学生の頃からバッハをやっていたことが、自分の中で自信になっていたと思いますね。最初はドイツに赴任しましたから、行く時も「自分はマタイを全部暗譜で歌っているぞ」という安心感があって、そこには単なる音楽だけでなくて、文化的な意味でも基本というか、私はクリスチャンではないけれど、キリスト教というものがベースになっている音楽が支えになってくれました。もともとドイツに憧れがあって、ドイツ語にも関心を持っていましたが、それがバッハの音楽を通じて、自分の中ではもっとピュアなものになったのかなぁと思います。

ドイツに居た頃、ユルゲン・ユルゲンスという先生についたのですが、やはり幅広いというか、モンテヴェルディから始まって、バッハより100年も前の作品から、バッハもやるし、ロマンティックなものもやるし、現代音楽までやりましたね。クリスマスシーズンになると、バッハ以前の伝統的な音楽をよく耳にしますし、バッハはどちらかといえば新しい方でしたよ。特にプロテスタントですと、マルチン・ルターから始まる音楽が自然に流れていましたね。


Q.
今回、浜松バッハ研究会の30周年となる記念公演で“マタイ受難曲”を選曲した理由は何でしょうか?

A.
10周年の時も、20周年の時も“マタイ”をやっています。
もちろん、バッハ作品でもメインとなるレパートリーですが、10年も経つと、会のメンバーも入れ替わったりしますので、10年おきくらいに繰り返していかないと共有できないということもあります。
そのことは合唱だけでなくて、オーケストラの方もそうですが、出来るだけ地元で活躍している若手の音楽家に新たに参加してもらうためにも、10年に一度はやっています。また、今回共演する児童合唱(浜松少年少女合唱団)も、10年たつとメンバーがみんな入れ替わるので、10年前に歌った子は一人もいないんですよね。世代をこえて新たに共有していくためにも10年に一度やるのは意義があるように感じています。


(創立30周年記念演奏会チラシ 2015.4.19)

それと、この会では、メンバーの子どもも一緒に参加するんです。その中で育ってきた子たちが、大人になっても一緒に歌っている人たちもいますし、それが一つの伝統ですね。結成当時から、練習の時から子ども連れて参加OKですよ。お母さんが一生懸命練習している横で、子どもはスラスラと暗譜して一緒に歌っているってこともありますし、そうやってピュアな歌声が加わることもとてもいいですよね。

マタイというのは、私たちにとってマイルストーンですね。

ただ、あまりに大曲ですから、他の曲はそんなに出来ないです。2年越しくらいで練習していきます。


Q.
合唱といえば、ベートーヴェンの“第九”が一般的にも有名ですが、バッハの宗教曲のききどころなどを教えてください。

A.
ベートーヴェンの第九はもちろん素晴らしい作品ですが、第九の場合、どちらかというとオーケストレーションの中では、言葉を与えられた器楽の一部のような役割を感じます。極端な表現を使うと、ちょっと非人間的とも思えるような、やたら高い音に跳躍したりなど、いろいろありますよね。トータルで聴くと実に素晴らしい作品なんですけど、歌っている人が自分のパートだけ歌うと、あまり面白くないって感じる部分も正直あると思うんですよね。
私が学生時代に濱田先生の指揮で第九を歌った時、私は家内とちょうど出会ったんですけど(笑)、私にとってはとても重要な曲の一つですね。会とは別の話ですが、長年お世話になってきた濱田先生を迎えて九州で「ピリオド楽器(古楽器)での第九を歌おう」という企画が実は動いていたんですが、その途上で先生が亡くなられてしまったんですね・・・。

オラトリオというくくりがあるんですね。ベートーヴェンのようなシンフォニックなものでもなく、オペラでもない、ただ、オペラ的要素というか、マタイもそうですが物語性があって、その途中途中にバッハは素晴らしい音楽を創っているんですね。語りが入って、コラールが入って、素晴らしいアリアがあって、その多様性は実に魅力的です。このマタイを作曲した当時は、まだ日本は8代将軍吉宗の時代ですが、これほどの音楽が既に誕生していたというのが凄いですし、やはり今聴いても「新しい」ですよ、バッハの音楽ってのはね。本当に奇跡だと思いますよ。

バッハは、ベートーヴェンから言わせると和声の大家ですが、ほかの専門家の視点からはフーガなどを確立した大家とも言われています。バッハは生前はオルガニストとしてはダントツの存在として有名でしたし、不協和音も多用した響きなど、当時の牧師さんから怒られたりもしたそうです。当時の人々には、今でいうヘヴィメタルのように聴こえたんでしょうね。時代の先をいっていたんだと思います。それでも、バッハの没後に一度は忘れ去られてしまいました。そこで、メンデルスゾーンが再発掘して、そのほかにもいろんな人が関わって、今でいう音楽の父として確立されていきましたね。

今になって考えてみると、精神的な面でも支柱というか、安心感を与えてくれる根源的な存在ですが、それ以外にも数学も得意だったようで、曲の中にいろんな数字が隠されていますし、単に思うつきで作曲はしていなくて、最初から小節数とかも決めて作っていますが、理論ばっている堅苦しさもなく、聴いていて美しいし、歌っていても不自然なところは全くないですね。コラールを歌っていると、バッハだということがすぐにわかります。全く不自然なところがないんですよね。コラールも同じ旋律が何曲あっても、同じものがなく、多様性があって、本当に天才というか、神様みたいですね。ですから、古くはならないですよね。



今回も児童合唱で浜松少年少女合唱団の子どもたちが共演しますが、子どもたちの感覚からどのように感じるのか、興味深いところはありますね。
これまでも、メンバーの子どもたちも一緒に歌いながら、自然に参加していましたから、きっと自然に受け入れていってもらえると思いますね。三澤先生のレッスンも楽しくて、子どもたちにも大人気なんですよ(笑)


Q.
今回の公演で指揮をされる三澤洋史先生についてご紹介ください。

A.
指揮者の三澤先生は、チェンバロを弾きながらタクトをとります。
三澤先生は、オペラでは新国立劇場の合唱団の指揮者で、海外ではバイロイトでも指揮しているオペラの合唱の第1人者ですし、先生ご自身はバッハに傾倒している方です。先生とご一緒するようになって30年になりますが、そもそものきっかけは、濱田先生の後継者だったんですね。私が最初に入っていた北九州の合唱団のコンサートで濱田先生の代役で呼んだことがきっかけになりました。私も九州に行って歌った時に会ったのが最初でした。


Q.
マタイ受難曲の聴きどころをあげるとしたら、どこでしょうか?

A.
聴きどころを一つあげるのはとても難しいですし、聴きどころは全部でしょうか(笑)


Q.
公演の編成や参加人数など大規模で、演奏時間も長大ですので、練習から本番まで大変な労力を要するかと思います。とくにどのような点にご苦労されていらっしゃいますか?

A.
浜松から20名、豊橋から20名、そのほかの地域から20名で合計60名ほどの合唱団に、児童合唱団も加わります。
マタイの編成としては、大きな編成ですが、これがプロの合唱団でしたら、もっと少なくてもいいのですが、私たちは結成当初から「子どもたちでも誰でも歌えるバッハ」をアマチュア主体に進めてきていますので、やはり人数は多くなってしまいます。そのため、ドイツ語特有の発音を合わせることもそうですが、繊細な表現など苦労することは多いですよね。

あと、オーケストラも小編成でも大丈夫なのですが、今回規模を大きくしているのは、オケのメンバーも世代交代を一つのテーマに掲げているからです。昔から一緒に参加いただいてきた方々だけでなく、新しい若い世代の奏者も迎えていくことで、この伝統を今後に継承していければと思っています。そのため本来でしたら2名いればいい楽器を4名でやったりも今回しているんですね。


Q.
これまでのバッハ研究会の30年で特に印象に残っていることはありますか?

A.
2001年のことですが、新年のはじめにバッハの聖地ライプチヒの聖トーマス教会の礼拝で歌ったことですね。本当に運が良かったんですよ。
日本でバッハの合唱団はたくさんありますが、聖トーマス教会の礼拝で歌ったことがある合唱団は数少ないです。
クリスマスや新年にかけての期間に聖トーマス教会専属の合唱団が休暇になる日があり、それでも教会では行事が続くので、そこで私が交渉に行ったら、平日の2日間「礼拝の合唱をお願いします」ということで、急きょ礼拝のための曲を与えられて、一生懸命練習して教会の合唱団のかわりに歌ったのが、私たちにとっても一つの誇りですね。この体験は本当に感激でした。バッハが実際に弾いていたオルガンの前で歌いましたからね。


(写真) ライプチヒ・聖トーマス教会の聖歌隊席にて 2001年1月5~6日

Q.
そのような大変な苦労を乗り越えながらも、30年も続けてこられた力の源泉というか、参加している皆さんの情熱やパワーを結集させているものは何だと思われますか?

A.
バッハの音楽そのものが持つ力と指導者の魅力ですね。


Q.
設立から30年となり、今後、未来に向けて、特に若い世代へ伝えていきたいことや、次世代の参加を促していくことへの展望などお聞かせください。

A.
最近は音楽に限らず、そういった傾向にあると思いますが、合唱の公演でも大規模な人数の参加で行うものと、少人数で行うものとの間で二極化が進んでいるように感じます。その中で私たちは、適正規模の合唱とアンサンブルを維持していければと思いますね。
「誰でも歌えるバッハ」がコンセプトですので、世代を超えて広く参加を募って、これからも伝統が消えていかないように、今後も続けていきたいと思っています。


Q.
今回会場となるアクトシティも20年を迎えていますが、音楽の都を掲げる浜松の音楽文化振興に今後願うことは何でしょうか?

A.
浜松は、音楽の活動団体も多く、はまホールが休館になったことで競合するようになり、アクトシティも会場の確保ができなくなってきています。
福祉交流センターやUホールなども、もう少し手を加えてもらうなど、何とかしていってもらえれば嬉しいです。
ドイツでもフランクフルトなど昔はそうでもなかったのですが、市の中心部の古いオペラ劇場を改装してコンサートホールを建てたことで、今やドイツの文化の中心の一つになっています。アクトシティは立地もよく、素晴らしいと思います。願わくば、中規模ホールが中心街に近い立地にあると理想的ですね。
浜松は、周辺の市町に比べると本当に恵まれているといわれますが、そう考えると、アクトシティを建てた元市長の栗原さんには本当に感謝ですね。


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創立30.周年おめでとうございます。
大都市圏でもない静岡県にあって、まさに浜松の文化の土壌があってこそ誕生したバッハ研究会、そして、これだけの大作の演奏会を今に至るまで継続してきている、河野代表をはじめとする研究会のメンバーの皆さんに心より敬意を表します。今後ますますの発展を祈念いたします。
取材にご協力くださり、ありがとうございました。

(取材 : 桜木敬太)

Update ; 2015.4.18