“ふじのくに”
先人の偉業と先輩が築き上げてきた伝統

 

写真05.
静岡県公立校初の“芸術科”創設への道



清水南高校芸術科創設に至る礎を築いた後藤晃先生の功績


富士の頂から 静岡の音楽文化の裾野が広がり そして 未来へ

2015年8月30日、富士市文化会館ロゼシアター・中ホールで開催する、ふじのくにユニバーサルミュージックフェスティバル in Fuji 2015“夏の祭典”が掲げるテーマである。

音楽芸術は、人が心で歌い、技術をもって奏でるもの。
そうやって育まれた文化が裾野を広げ、地域に豊かな花を咲かせるためには、何より人を育てる教育こそが実に重要なものとなる。

静岡県中部を中心に富士市などの県東部にかけて、芸術文化の振興に貢献している人材を多数輩出し、現在も更に発展を続けているのが、静岡県立清水南高校芸術科であり、同校に芸術科を創設するに至る礎を築いたのが、富士に生まれ、音楽と出会い、音楽教諭として生涯を送った故・後藤晃先生である。

今回、県東部初開催となる同フェスティバル“夏の祭典”の開催と併せて、後藤晃先生に関するお話を、奥様の哲子さん、教え子の杉山美彌子さん、川口昌子さんなど関係する皆様に伺いながら、清水南高校の発展の歴史を辿りながら現在までを概観する。


芸術科の原点「音楽コース」誕生

1963年、清水東高校の南分校として開設した同校は翌年に現在の清水南高校として独立発足する。この年から特筆すべきは普通科の中に特性コースの一つとして「音楽コース」が誕生したことである。


(写真:現在の清水南高校)

伝統校の東高や西高とは異なる特色ある学校づくりを掲げた南高にとって、この独立発足した1964年に始めた音楽コースの実践こそが、後の「芸術科」創設の第一歩となった。(美術コースは音楽コースの翌年に誕生)

特色ある学校づくりの舵取りを担ったのが、初代校長の福井半治先生。
そして音楽コースの実践に向けて、最初に白羽の矢を立てたのが、富士市の中学校などで音楽教諭を務めていた後藤先生であった。


(写真:初代校長の福井半治先生)

音楽コース誕生の翌年度、特別教室が入る第2校舎が完成。
当時のことを、後藤先生は学校創立25周年記念誌に寄せて次のように語っている。

『初年度の音楽コースの人数は男子6人、女子16人だった。やがて第2棟の校舎の建築にあたっては、特別な音楽室を作るという事で、初代福井校長と上京し、武蔵野音楽大学学長と面会して個人練習室の作り方等を話しあった。それが基となって現在の斜め作りになっているのである。昭和41年(1966年)3月に第2棟が完成し、それぞれの教室にピアノが着々と搬入され、急激に音楽コースとして充実していった。』


(写真:第2校舎の廊下)

音響効果を考慮して廊下が斜めになっているつくりは、武蔵野音楽大学を参考に設計されたという。校舎完成時に、ピアノ個人練習室のほか、音楽室、準備室、合奏室などが作られ、そこに、グランドピアノ2台、アップライトピアノ10台をはじめ、ヴァイオリン18、ヴィオラ8、チェロ6、コントラバス4、オーボエ2、ファゴット2などの楽器も揃っていた。

「福井校長は本当にすごい先生だった。と主人は何度も話してましたね。」と語るのは奥様の哲子さん。
生前のご主人が、そのように何度も口にするほど、初代校長の尽力と苦労は大変なものだったことが伺える。

特性コースとして始めたばかりの段階でありながら、音楽教育環境として充実した特別教室を何部屋もつくり、そこにピアノを何台も入れるだけでも、当時の金額にして一体いくらかかるのか?と考えるところに、さらに一つのオーケストラが編成できるほどのヴァイオリンをはじめとした弦楽器を何台もと、オーボエやファゴットといったダブルリード楽器をそれぞれ複数そろえるなど、たいへん高価な楽器の数々を一気に導入したことも大変なことだ。
それらは、関係する各機関に予算を確保してもらえるように動き回っていた福井校長の尽力なしには実現できなかったことである。後藤先生は当時の苦労を思い起こすとともに、校長先生への感謝の念を抱き続けていたのだろう。

開校当時より奔走を続けた福井校長にとって、音楽コース始動の右腕となった後藤先生であった。専門的な見地から企画・計画・実践を行うにあたり中心的役割を担っていったに違いない。

ここから、草創期の清水南高の歩みに深くかかわっている後藤先生の音楽との出会いに目を向けてみたい。


富士で生まれ、ピアノと出会い、音楽の道へ

戦前の昭和の時代、静岡県の東部、当時の富士郡鷹岡町(現在は合併して富士市)に生まれる。

音楽とは生まれながらに自然とふれながら育っていったという。それもそのはず、後藤先生の父も音楽の先生とのこと。そういった家庭で育ったため、最初の先生は「お父さん」
姉も弟もみんな音楽を習ったという。まさに後藤家は音楽一家。

その後、大きくなると父の勧めで内山俊先生のレッスンを受けるようになった。内山先生はこの地域のピアノ指導の第一人者というほど著名な先生であった。
「ピアノを習うのは女の子が多い中、家に帰る時間の関係もあるのか、いつもレッスンの最後は男の子の晃さんだったようです。『晃は男だから、』と言って、始めからウイスキーを片手にレッスンがはじまったこともあるみたいですよ。それでさらに熱が増したのかわかりませんが、とにかく『厳しかった・・・』って話していましたね。」と哲子さんは語る。

そのようにして厳しいレッスンを乗り越えながら、後藤先生はその後、音楽大学受験のために関東の先生のところまでレッスンを受けに通うことになる。時代的には、戦後から復興途上の昭和20年代の日本。 生活するだけでも大変な時代に音楽の専門教育を学ぶこと自体、どれほど貴重なことであったか、計り知れないものがある。現代の私たちは、その時代の苦難を乗り越えて、道を切り拓いてきた先人の方々のご苦労の恩恵を等しく受けている。

後藤先生が関東にレッスンに通っていた当時の話を聞いているのは、中学時代に先生の音楽の授業を受けた教え子の杉山美彌子さん。

後藤先生は県立富士高校に通いながら、音大受験に向けてのレッスンを続けていたとのこと。
富士高校時代には学内の発表会で、ショパンの「幻想即興曲」や「革命のエチュード」などを生徒を代表して演奏を披露する場も経験している。杉山さんの兄も富士高校の出身で、後藤先生より学年は下とのことだが、学校で直接、高校時代の後藤先生の演奏を聴いたことがあるという。

「今のように新幹線も走るなど東京まで行くのに交通の便もよくない時代だから、身延線の最寄駅から富士駅を経由して通うだけでも大変なことだったと思います。一回の短い時間のレッスンが、どれほど貴重で大切な時間か、今の私たちが考える以上にそのことを実感していたんじゃないでしょうか。」と杉山さん。

厳しいレッスンや過酷な受験勉強を乗り越え、後藤先生は武蔵野音楽大学へと進学する。
この道が、のちの清水南高校赴任後の新校舎建設の計画など、音楽コースの飛躍的な発展へとつながっていくことになる。

現在、富士市内でピアノ教室の先生を務めている杉山さんも小さい頃からピアノを習っていた一人。
中学校に進学し、音楽の授業を受けたのが当日富士市内で教鞭をとっていた後藤先生。杉山さんは、中学校の授業が終わった後、音楽室で一人ピアノを弾いていた先生の姿を見たという。

「あんな凄いピアノは、私は初めてでした!」

偶然聴いた後藤先生のピアノの演奏があまりに衝撃で、今も鮮明に記憶が蘇るという。
当時、生で本格的なピアノを聴く機会など、そうそう無い時代に東京の音楽大学でピアノを専門に学び、普段授業では見せないピアノと一対一で向かい合いながら、目の前で奏でられた後藤先生の音楽の世界にすっかり魅了されたとのこと。

またある時、「先生から『文化祭で今習っている曲を弾いてごらん』って先生から言われたんです。その曲は私が音楽コンクールに向けて練習した曲だったので、もうちょっと自分なりに出来てからじゃないと・・・って当時は思ったんでしょうけど、少し遠慮してしまったんですね。」と、そのように応じた杉山さんは、その後の先生の言葉が今も心に深く刻み込まれているという。

「自分が弾きたくないから弾かないってのは、子どものピアノだよ。」

「弾きたくないからって嫌とか、自分のスイッチではなくて、人の前に立って音楽を演奏するということは、一体どういうことなのか?、あとでよく考えれば考えるほど、本当にそうだ!と思いました。」と杉山さん。当時、27~28歳頃の若い後藤先生が語ってくださった言葉の重みを今もかみしめている。


音楽コースの教え子の活躍

故郷の富士に戻って中学校の先生を務めていた後藤先生は、最初から述べているように、白羽の矢が立つ形で開校と同時に清水南高校の音楽教諭として赴任する。

前述の『昭和41年(1966年)3月に第2棟が完成し、それぞれの教室にピアノが着々と搬入され、急激に音楽コースとして充実していった。』という先生による寄稿文には続けて次の言葉が綴られている。

『やがて卒業生も年々音楽系大学に入りはじめ、昭和47年(1972年)に第1回サマーコンサートを現在にまで至っている次第である。』

草創期において、上記のように音楽系大学に入った卒業生の一人が、同校5期生の川口昌子さん。
在学中、後藤先生の授業を直接受けながら、音楽を専門的に学んでいった川口さんは、音楽大学に進学。母校の清水南高校の非常勤講師になり、現在も講師としてピアノを生徒たちに教えている。

「いつもニコニコされていました。」と川口さん。

後藤先生の印象という問いかけに一言、そのように語った川口さんはさらに続ける。

「“こうしなさい”と決して、指示をしたり、決めつけるような物言いをすることが無い先生でしたね。自由に音楽をさせてもらいました。」というのが、教え子の立場からの後藤先生の印象とのこと。
さらに、清水南高の講師になられてからは、仕事の上では先輩でもあり、上司のような立場になってからの印象として、「卒業生のその後のことを、いつも気にかけられていました。一言でいえば、面倒見がいい先生だと思います。」と語る。

子どもの頃から培った音楽への厳しさを内面に秘めながらも、教え子や後輩に対しては、温厚でにこやかに接しながら、音楽の指南をしていたのだろうか。後藤先生の懐の深さを感じさせる一面といえよう。


開校からの伝統“南陵フィル”と後藤先生

清水南高校では、開校とともに始まったクラブ活動が、分校から独立発足した2年目から本格化し、その年には後の「南陵フィル」に発展する器楽部(のちの管弦楽部)も活動を始めている。音楽コースの生徒へのレッスンと共に、後藤先生は器楽部も指導している。

「管弦楽の生徒たちとの時間は、本当に楽しかったみたいですよ。」と奥様の哲子さん。

器楽部(のちの管弦楽部)の通称は「南陵フィルハーモニー」

音楽コース誕生時、個人練習室を作ったり、ピアノを多数導入したのと同時に、弦楽器の数々やダブルリードの木管楽器など高価な楽器を一気に揃えたことで誕生したのが南陵フィルともいえる。

管弦楽(オーケストラ)と言えば、芸術科(音楽コース)で専門に学ぶ生徒たちで編成されている印象をもたれるかもしれないが、音楽コースの生徒というより、普通科の生徒が圧倒的に多数を占めて活動している。年に一回、大ホールで定期演奏会を開催するなど、県内でも特に数が少ない管弦楽部の中にあって、長い伝統を誇り、現在も活発に活動を続けている。


(写真:現在の管弦楽部、南陵フィルハーモニー)

ある日、こんなことがあったという。
「体調を崩して授業を欠席した南陵フィルの生徒が、午後の部活には行こうとしたそうで、あとで保護者からその話を聞いた時、『うれしかったよ~』って主人が話していましたよ。」と哲子さん。夏に長野の方に部活の合宿に行ったこともあって、それも「楽しかった~」とよく話していたとのこと。

南陵フィルのOBOGが、大人になってからもクリスマスやお正月に後藤先生の自宅に集まり、酒を酌み交わしながら、時に一緒に演奏を楽しんだりした。OBOG同志で結婚するカップルも数組誕生するなど、おめでたい話も多々あり、「何度か仲人をやりましたよ。」と当時を懐かしみながら笑顔の哲子さん。

南陵フィルと後藤先生の絆が生んだ歴史は、先生夫妻にとっても、心から楽しい思い出のようだ。

創立50周年記念誌に寄せられた南陵フィル出身の卒業生の声の中に、南陵フィルの楽しい充実した想い出にふれているものがあった。「中学校時代に吹奏楽部を経験したが、コンクールの厳しい練習を乗り越えた充実感はあったが、南陵フィルでは重厚な弦楽器を加えた魅力と一緒に音楽の楽しさを実感できた」と語られている。
年に何度かコンクールやコンテストといった活動が中心となりがちな吹奏楽部や合唱部の活動とは異なり、そのような枠組みのない管弦楽部ならではともいえるだろうし、そこには、後藤先生のような存在は大きいといえよう。


清水南高の主要行事“サマーコンサート”の開催

後藤先生の言葉に戻るが、『昭和47年(1972年)に第1回サマーコンサートを現在にまで至っている次第である。』とされる同校の歴史の中、音楽コースの発展とその後の芸術科創設に向けて、とりわけ重要な行事となっているのが「サマーコンサート」である。


(写真:第1回サマーコンサート1972年)

1972年の第1回サマーコンサートでは、音楽コース在校生の演奏のほか、同卒業生によるソプラノ独唱やヴァイオリン独奏などと、後藤先生指揮の南陵フィルによる交響詩“フィンランディア”が演奏されている。同コンサートを鑑賞した武蔵野音楽大学学長は『音楽コース特設の卓見に敬意を表し、清水南高校の発展を祈る。』とメッセージを寄せている。
その後、後藤先生が在任中、音楽コースの在校生、卒業生、南陵フィルが共演する形でサマーコンサートは毎年開催され、回を重ねていくことになる。


(写真:第3回サマーコンサート 南陵フィル 指揮:後藤 晃 1974年)

思えば、このソロ演奏や大きな編成の楽団の演奏を組み合わせるスタイルというのは、富士の中学校の教諭時代に、学校の部活に所属しておらず、個人レッスンを受けてピアノを習っていた杉山さんに「文化祭で演奏してごらん。」と声をかけた後藤先生の考えをそのまま具現化しているようにも感じる。
清水南高という学校の特色を最大限に活かしながら、個人レッスンで学んでいる音楽コースの在校生の発表に留まらず、優れた卒業生も招いての演奏に加え、さらに南陵フィルに参加している普通科の生徒たちも多数共演できるという実に意義のあるコンサートであるといえよう。

武蔵野音楽大学の学長をして「音楽コース特設の卓見」と評された教育方針が、年を重ねると共に優秀な卒業生を多数輩出しながら発展を重ね、清水南高校は創立から23年を経て、1986年に県内公立校初の「芸術科」を創設するに至る。

後藤先生ご自身、芸術科を創設する6年前の1980年春に静岡城北高校に異動した関係で清水南高校を離れているが、その後、数年して再び清水南高に戻り、退職される1994年まで芸術科となっている南高で教鞭をとっている。


音楽文化の裾野を拡大

初代福井校長と後藤先生の多大なご尽力によって築かれた清水南高校の音楽コースの礎は、その後、県内公立校初の「芸術科」として結実し、その後も優れた音楽家を多数輩出していく。

「優れた卒業生の輩出」の方は、音楽系大学への進学率や進学先の実績などから自他ともに認める評価を得ているが、一つ注目すべきは、数字にはあらわれない「音楽文化の裾野の拡大」への貢献である。

音楽系の大学に進学する学生の数は、一般も含めた全体から見れば、ごくわずかといえよう。

ここで注目したいことは、地域社会における音楽文化に対する認知や理解など、音楽を豊かな文化として享受できる感性や共感の度合いが、音楽の専門の業界や関係者の中だけでなく、一般の社会の中でどの程度高まっているのかという、いわゆる「音楽文化の裾野」という観点である。

南陵フィルがその代表的な要素となりうるが、清水南高校が学校をあげて長年取り組んできているサマーコンサートや南陵祭(文化祭)など、普通科の中に特性コースとして音楽コースを特設していた時代から一貫して、学校の特色を生かした取り組みの数々が、音楽の専門の道に進む以外の一般の卒業生たちに与えている影響は、数値にはあらわれてこない実に意義のある効果をもたらしているに違いない。

特筆すべきは、音楽コース(その後の芸術科)を卒業した優れた音楽家による演奏を、普通科の生徒が自然と鑑賞できたり、サマーコンサートなどを通して共に創り上げていく体験は実に有意義であるといえる。
これらの経験が長い学校の歴史の中で積み重ねられていることを通して、どれほど地域の音楽文化の裾野を拡大することにつながっているか計り知れない。

普通科の生徒である南陵フィルの卒業生が「音楽の楽しさ」を部活動で実感できることは、その観点で非常に意義深く、卒業後、社会人になってからも音楽を愛好する人が多いことは、地域の音楽文化を豊かにしてくれる大事な要素となりうる。

清水南高校の特色は、音楽のプロを目指すスペシャリストの育成だけでなく、音楽文化を将来にわたって愛好し、地域文化の裾野を広げ、未来に向かって豊かな文化を育むことに大きく寄与するものと考える。

そして、後藤先生が退職されてから、およそ10年の時を経て、清水南高校は、それらの特色をさらに拡充する大きな転換点を迎えることになる。


中高一貫校としてさらに特色を強化

2003年4月、これまでの清水市が静岡市清水区となった歴史的な日と共に、清水南高校も中等部が新たに開校し、中高一貫校として新たな第一歩を踏み出した。


(写真:初めて中等部も参加して行われた南陵祭)

その中で特筆されるのが、中等部に学校特設科目として新たに「表現」の授業の実施を始めたことである。
これは、音楽・美術・体育の合科授業による学校独自に設けた科目である。
この「表現」の授業をきっかけに、高校から芸術科へ進むことを志望する生徒もあらわれるなど、開校以来、特性コースを設けて、その特性を活かしてきた清水南高校ならでは成果ではないだろうか。


(写真:中等部「表現」の授業の発表の様子)

また、中高一貫となり、6年間通しての活動が可能になったことで、伝統を誇る南陵フィルの充実は目を見張るものがあるという。普通科の生徒が大多数の南陵フィルにとって、多くが学校に入って初めて楽器にふれる初心者が多い。特に弦楽器は短期間での習得が難しく、高校3年間だけの活動の場合、ようやく楽器に慣れて演奏技術も上がって、積極的に表現したいと思っても、そうなった頃には卒業を迎えてしまうことになる。ところが、そこで中学校3年の経験をベースに、さらに高校でも活動できることで、単純にオーケストラの人数が増えるだけでなく、技術の向上とともに表現の幅がひろがることの意義は非常に大きい。
中高一貫でオーケストラの活動を行うことは、子どもたちにとって得られるものがとても大きく、格別に貴重な経験になるに違いない。


(写真:南陵フィルハーモニーの演奏会)

後藤先生の時代に、中高一貫で充実した南陵フィルがあれば、きっと先生の喜びもさらに倍増していたに違いない。

このように、清水南高校の歴史を概観することで、開校当時、普通科の中に音楽コースを特設した卓見が起点となり、時代の流れとともに広がりをみせ、大きく発展していったことが伺える。


晩年、地域の文化振興に貢献

1996年に清水南高校を退職された後藤先生は、その後、常葉短期大学でピアノ講師をされた後、地元の鷹岡地区の公民館(現在のまちづくりセンター)で地域の文化や生涯学習に関わる仕事をされ、活躍を続けられた。

地域とのつながりといえば古くは、開校したばかりの清水南高校の第2校舎が完成した1966年、地元の鷹岡中学校(現在は富士市立)に天文台を設置するお祝いにショパンのピアノ作品を披露したと伺っている。その生涯にわたり、先生の奏でるピアノが、人と地域をつないできたといえよう。

生前の父から贈られたピアノが、現在も後藤先生のご自宅に遺されている。


(写真:父から贈られた愛用のピアノ)

ピアノの先には、にこやかな笑みを浮かべ、優しく見つめる晃先生の御写真が飾られている。


(写真:ピアノの先に飾られる先生の御写真)


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[プロフィール]

後藤 晃 (ごとうあきら)



1934年(昭和9年)、富士郡鷹岡町(現在の富士市)に生まれる。

県立富士高校を卒業後、武蔵野音楽大学ピアノ科に入学。同大学と同大学院で学ぶ。

幼少時よりピアノを父に習う。中学1年より内田俊氏、大学時代に若尾輝子氏、レオナルド・コハンスキー氏に師事。教員となった後、指揮を静岡大学教授・惣田三四司氏、金子昇氏に師事。

大学院を修了後、富士市の岩松中学校や富士中学校などで音楽教諭を務め、清水南高校の音楽教諭となる。清水南高校にて、二管編成(約60名)のフルオーケストラを結成。(当時は器楽部、現在の管弦楽部)
その後、静岡城北高校に異動した後、再び清水南高校の芸術科に赴任し、現役を退職。
退職後は常葉短期大学でピアノ講師を務めたほか、鷹岡地区の地域の文化活動など生涯学習関連事業に貢献された。

2011年(平成23年)10月21日逝去。


(掲載写真提供)
静岡県立清水南高等学校・中等部『創立50周年記念誌』など。

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UMF in Fuji 2015 “夏の祭典”
第3部 トークステージ


(写真) 第3部 トークステージ 中央は後藤晃先生のお写真
写真右から川口昌子さん、杉山美彌子さん、ローズクレールの三人

2015年8月30日 富士市文化会館ロゼシアター・中ホール

→ 新聞記事(富士ニュース社)はこちら
→ 夏の祭典の公演情報はこちら

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この度の取材の際、先生の奥様の哲子さんが、「県公立校初の“芸術科”創設の礎を築いたことの最大の功績は、初代校長の福井半治先生が最大の功労者で、主人はその下で働いていただけです。」と最後まで話されていました。何度も口にされるのは、決して謙遜されてというだけでなく、生前の後藤先生が、おそらく度あるごとに奥様との会話の中で『初代校長のおかげ』という言葉を語ったのだろうと思いました。
文化芸術の振興にとって最も大事なものは「人の教育」であることを冒頭に記しましたが、教育を真に実りあるものにしていくためには、音楽の専門領域の教育法であったり、専門的技術の習得だけでなく、時代の先を卓見する確かなビジョンと、それを実現するための教育的環境を整えるための財源の確保など環境整備に対するたゆまない尽力がかかせないことを、今回の取材であらためて感じました。
それを50年も前から実践されて、現在も発展を続ける清水南高校の今後ますますの発展に期待します。
後藤哲子さん、杉山美彌子さん、川口昌子さん、取材にご協力くださり、ありがとうございました。
また、関係資料をご提供いただいた、清水南高校校長の秋本先生をはじめ、同校のOBOGの皆さんにも心より感謝いたします。ありがとうございました。

 [取材] 2015年7月12日・後藤哲子さん ご自宅 ほか

(取材・編集 : 桜木敬太)

Update ; 2015.8.28
(修正:2015.9.8)